「そなたにはずいぶん寂しい思いをさせた。わたくしを許しておくれ」
久しぶりに会った伯母は、有間の両手をしっかりと握り締め、涙を浮かべてそう言った。
肉厚な伯母の手のひらは、床に横たわり痩せこけた父との立場の違いを無言で示しているようで、ひどく居心地が悪かった。
そっとあたりに視線を向けるが、有間をこの場所に連れてきた葛城の姿は見当たらない。
「軽があれほど弱っていようとは、思いもしなかった。わたくしがもう少ししっかりしていれば、このようなことにはならなかったのに‥‥」
己を悔やむ伯母の言葉に、有間の胸は冷えていく。
そう言いながら、実の弟を裏切ったのはだれだ。
あなたの息子が、父の喉元に鋭い刃を突き付けたのではないか。
どす黒い怒りの感情が口からほど走りそうになる。
唇をきつく噛み締め、それらを嚥下する。
「そなたはここに残るのか? ここはあまりにも寂しすぎる。軽とともに飛鳥に来てはどうじゃ。そうすれば軽の治療も十分にできるしの」
弟と甥を案じての言葉なのだろうが、あまりにも残酷だった。
この難波の宮がこれほど静かなのは、大王である父が反対したにもかかわらず、伯母の息子である葛城が多くの豪族や皇族を飛鳥に連れて行き、権力が誰にあるかを見せつけたからで、憔悴した父はひと気のない宮で息絶えようとしている。
伯母の言葉が身体の中に巣食っていた黒い念を目覚めさせ、今にも肌を突き破り飛び出そうとしている。
押さえる力と破ろうとする力が激しくぶつかり合い、眩暈がする。
吐き出す息さえ黒く澱んでいる気がする。
これ以上、伯母の言葉を聞くことはできなかった。
「‥‥伯母上、わたしより、父の側にいてあげてくださいませ。何度も伯母上の名を繰り返し呼んでおりましたので、喜ぶと思います」
失礼致します、深々と頭を下げて部屋を出た有間は、服がしわになるのもかまわず胸元を鷲掴みにして、走らない程度の勢いで庭に面した回廊に向かい、冷たい秋風を感じた途端、詰めていた息を吐き出した。
額に触れると、じっとりと汗をかいていた。
悪い人ではないのだ。心から自分の不甲斐なさを責めて、涙を浮かべていたのだ。
それは分かっている。
頭ではそう理解していても、心がついていかない。
伯母の言葉は毒となって有間の身体を侵したようで、胸元を掴んだ手は細かく震えていた。
「逃げ出してきたか」
どこかに隠れていたのだろう。近づいてきた葛城の薄い唇は楽しげに釣り上がっている。こうなることを予想していたようだ。
ちらりと先ほど有間と伯母がいた部屋の方角に視線を向けて、言った。
「我が母ながら、残酷なことを口にする。あれで本気で嘆いているのだから、面白いとは思わないか?」
この人は、自分の母親でさえ政治の道具と思っているのだろうか。
嘆き悲しむ母親の姿を見て、何も感じないのだろうか。
「‥‥あなたはっ!」
瞬間的に怒りが有間の口から滑り落ちる。
言葉に出した途端、己の怒声に驚いて、有間はハッと口を閉ざした
うつむいて黙り込むしか逃げ場がない。
庭に植えられた木々が風に吹かれて枝を揺らし、舞い落ちた葉がいくつも足元を転がっていく。
なぜこんな時に、采女の一人も通らないのだろう。いくら人気の少ない宮だとしても、大王の世話をする采女や舎人は幾人もいるのだ。
耳に入るのは風と落ち葉、そして己の心の臓の音だけ。
痛いほどに葛城の視線を感じる。
流れる沈黙がひどく肌を刺激していく。
「珍しいものを見た。おまえも怒りの感情を持っているのだな」
「‥‥え?」
ぽつりとつぶやかれた言葉に、意味が分からず有間は顔を上げた。
そこにあったのは、棘が抜けた葛城の顔。
葛城の冷たい美貌には、いつも近づく者を凍てつかせる棘が見えていた。
それがなかった。
「曖昧な笑顔を貼り付けてのらりくらりと過ごす、面白くない従兄弟だと思っていたが‥‥なるほどな」
腕組みをして、なにやら納得したように二・三度頷く。
眉をよせながら、有間は頭を下げた。
「‥‥口が過ぎたようです。申し訳ありませんでした」
「何を謝る? 面白いものを見せてくれたというのに」
「‥‥」
葛城が一歩近づく。
後ろに下がろうとする心に叱咤し、回廊の手すりを強く握り締めて、踏みとどまる。
「おれが怖いか?」
「そのようなことは‥‥」
慌てて首を振るが、その顎を捕らえられる。
上を向かせた顔を覗き込むようにして、葛城は冷徹な眼差しで有間の心を縫いとめていく。
呼吸が止まる。
「震えているぞ」
ささやきに笑みが混じっている。
そっと冷たい指で頬を撫でられて、思わず有間は目を閉じた。
指が離れて、それが意外なほど温かかったことに気付いた。
「おまえは、本当に面白い」
頬から離した腕で有間の肩を軽く押した葛城は、有間がよろけた間に踵を返し、落ち葉を踏み砕きながら回廊から姿を消した。
落ち葉が渦を巻きながら、足に絡み合う。
有間の心のように。
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